日蝕は陽中の陰点を表わしている。
仏や天使の頭に浮かぶ光輪も陰極であるこちら側を陽極から照らしているために金環に見えるのだ。
つまり陰陽は常に表裏一体に重なっていて陰点と陽点がお互いを結びつける窓口になっていて、太陽もその一つに挙げられる。
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず、と対比され、太極=元気を『老子』の「一」や『荘子』の「一気」と見なし、その上位に老子の「道」を置くような解釈が行われた。北宋になると周敦頤が『太極図説』によって『老子道徳経』28章の無極を取り入れ陰陽五行によって解釈した無極-太極-陰陽-五行-乾坤(天下)-男女-万物といった構図を図として提示した。南宋の朱熹は自説の理気二元論を説明するためにこの図を取り入れ、陰陽=気に先行する太極=理とした。なお朱熹は周敦頤が太極の前に冠した無極は太極に先行するものではなく、太極の性質を形容するものであるとして「無極にして太極」と解釈している。
これはどういうことかと言うと、宇宙の根源である元気は陰陽の太極から生じ、万物を形成していったということを意味している。
人間に宿る魂も中心に太極である核(霊体)があって、その周りを幽体が覆って人格を形成している。
直接何かに取り付かれたり、惑わされたり、傷ついたりするのは幽体で、潜在意識に埋もれた霊体に影響を与えている。
人格である幽体を好きになるのが恋で魂の本体である霊体を好きになるのが愛だ。
心から引かれる女性には不思議と性欲が沸かないのは、見かけである幽体ではなく、霊体のほうを好きになったからだ。
霊体の方に強く惹かれてしまうと後に尾を引いてなかなか相手を忘れることはできない。
成仏するためには、現世で汚された幽体を脱ぎ捨てて霊体を浄化してやらないとこの世に未練が残って地獄に縛り付けられたまま天上には昇って行けなくなる。
極道の本当の意味は、一文字、つまりまっすぐに信じた道を前に突き進むことだ。
来た道を引き返しても元の地獄を見るだけで、前方にこそ天上へと駆け上がる階段が用意されていると信じよう。
横道から梯子を差し出して誘ってくる天狗や悪魔、その他魑魅魍魎の外道どもの口車に乗ってしまうと、最後は食い物にされて梯子をはずされてしまうだけなので、良い子はよそ見をせずにひたすら前に突き進んで行けば、一は仲間である二を生じ、二は三を生じて並行する道はどんどん広がって、供に助け合い、支えあいながら人生行路をしっかりと歩んでいけるのである。
天狗にかどわかされた爺には、三が二に減り、最後は一になって渡辺真知子の迷い道をくねくね歩いて、最後は人生の袋小路で、途方に暮れたままさびしく果てる未来しか見えない。
雉も鳴かずば撃たれまいに。爺は泣いても振り返る者などいまいて。
え?駄洒落路線はぼちぼち飽きられてきたようなので、今度は松本いよのセンチメンタルジイジャー路線に変えたのかって?
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